安堂グループの歴史物語[第1話]
高森牛の歴史は明治初期に遡ります。その長い歴史のなか、山口県東部随一の牛肉生産を誇る安堂の名が登場するのは、意外にも戦後間もなく、昭和22年のことでした。
これは、現在の安堂グループに至る道のりを辿った歴史物語。そこには、激動の時代を生きた5つの世代、それぞれの苦難と歓喜の秘話がありました。
第1話
安堂のトレードマークの由来
安堂畜産のトレードマークは、屋根のような冠の下に「安」の字です。この冠は屋根ではなく、実は「山」を表したものです。
現在の社長・安堂卓也から遡ること五代前に安堂山右衛門(さんえもん、明治4~不明)がいました。実は、トレードマークの「山」は、山右衛門の「山」なのです。
地域の世話人だった明治期の安堂
山口県の高森地区(山口県岩国市周東町)は、高森牛の産地として知られ、食肉産業の盛んな地です。その歴史は、明治初期に遡ると言われています。明治期には市場や屠畜場が整備され、牛の取引が行われていました。しかし、安堂山右衛門が食肉産業に関わっていたという記録はありません。では、山右衛門とは、どんな人物だったのでしょう。
その手がかりは、高森地区を見渡すことのできる小高い山の上に残されています。道なのかどうかも見分けもつかない藪を分け登ると、高さ3メートルほどの立派な石碑が忽然と現れます。
表側に書かれている文字は、「教育勅語渙発四拾周年 記念碑」。裏側には「発起人 西山捨造 安堂山右門 昭和6年5月建之 石工 藤岡勇」。
この石碑から推測すると、山右衛門は地域の世話役のような立場にあったのではないかと考えられます。
石碑建立時、山右衛門は60歳。後に安堂畜産を興すことになる次男の寿(ひさし、明治38~平成2、1905~1990)は27歳。山右衛門にとって孫となる親之(ちかゆき、大正15~、1926~)は5歳でした。
- ▲正面には「教育勅語渙発四拾周年 記念碑」の文字
- ▲裏側には「発起人 西山捨造 安堂山右門 昭和6年5月建之 石工 藤岡勇」
戦争、そして母の戦い
山右衛門が教育勅語の石碑建立に関わった昭和6年の後、時代は太平洋戦争へと突き進みます。昭和12年に始まった日中戦争(支那事変)を皮切りに、昭和16年には太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦。30代だった寿は徴兵を受け、妻・ユキに見送られて戦地へ赴きました。
開戦時、寿の息子・親之は15歳でした。高等小学校を卒業すると、岩国陸軍燃料廠(いわくにりくぐんねんりょうしょう)の講習所に入所。そこで石油精製技術を習得すると、パレンバン油田(インドネシア)への赴任を志願し、選抜されました。
喜ぶ親之でしたが、母・ユキの心境は複雑です。激化する南方の戦況が伝えられていました。夫は出征中、これに加えて長男まで戦争にとられては…。ユキは思い切った行動へ出ました。
東京で出航の日を待っていた親之を追って上京すると、息子に志願を取り下げるよう説得しました。若い親之にとって、石油技術者としての将来を棄てることは、苦渋の選択です。行動を共にする同期生たちも一緒にいました。
しかし、母の必死の説得には勝てません。仕方なく親之は、南方行きを諦めて、母と共に家路につきました。
それからしばらくしてから親之のもとへ、乗るはずだった船の撃沈が知らされました。同期生たちの全員が、帰らぬ人となったことも…。間一髪のところで親之は母に救われました。ユキのこの行動がなかったら、今の安堂畜産も存在しなかったでしょう。
畜産業への第一歩
終戦を迎えて、出征していた寿が無事帰還を果たすと、家族は再び一緒に暮らすようになりました。
ところが、暮らしはけして楽ではありません。戦後の混乱期、誰しもが必死で生きようとしていた頃、寿と親之は地域で採れていたマンガン鉱を九州の八幡製鉄所まで苦労して運ぶ仕事を経験しています。ユキの実母は、安堂の苦しい台所をおもんばかって、牛の内臓を度々、届けてくれました。家畜商だったユキの実家は、牛の肥育や食肉販売も手掛けていたのです。そしてそのことが、安堂畜産の誕生へとつながりました。
ユキの実父・池本九市の手ほどきを受けると、寿と親之は牛舎の牛を入れ替える家畜商を開業しました。そのときの屋号は安堂商店。42歳だった寿が初代店長になりました。そして、他の店と区別するために使い始めたのが、「山」に「安」のトレードマークでした。それは、地域の世話人だった父・山右衛門への誇りだったのかもしれません。
寿とユキ、そして親之による安堂商店は、明治からの伝統ある高森の畜産界にあっては、最後発。前途多難な幕開けでもありました。
昭和34年(1959)