安堂グループの歴史物語[アナザーストーリー 5]

安堂グループの歴史物語 タイトル画像

 高森牛の歴史は明治初期に遡ります。その長い歴史のなか、山口県東部随一の牛肉生産を誇る安堂の名が登場するのは、意外にも戦後間もなく、昭和22年のことでした。
これは、現在の安堂グループに至る道のりを辿った歴史物語。そこには、激動の時代を生きた5つの世代、それぞれの苦難と歓喜の秘話がありました。

アナザーストーリー 5

直売店「肉のこーべや」物語

 安堂グループの直営スーパーの店名がなぜ、「肉のこーべや」なのか。読者のみなさんはご存じでしょうか。この玖珂・周東に暮らして半世紀になる著者でさえ、「有名ブランドの神戸牛にあやかっているのだろう」くらいにしか考えていませんでした。高森牛や皇牛というブランドを持ちながら、なぜ神戸を冠するのか…。
 この物語の始まりは、昭和20年代に遡ります。

神戸帰りの肉職人

 戦後の混乱が続いていた昭和22年、安堂商店(現・安堂畜産)は産声を上げました。現在の社長・安堂卓也から遡ること4代前、初代店主・安堂寿は当時42歳、2代目になる息子・親之(卓也の祖父)は21歳でした。牛舎の牛の入れ替えをする家畜商として創業しながらも、八幡製鉄所にマンガン鉱を運ぶ仕事をしたり(第1話)、ハムの製造を手掛けてみるなど(第2話)、昭和20年代は試行錯誤が続いていました。

 そんな時代、牛肉の加工や小売りについての先進地といえば、牛肉を食べる習慣が早くから根付いていた国際都市、神戸でした。当時、牛肉に関わる家系に生まれた次男や三男のなかには、神戸の店で修業をする者も少なくありませんでした。
 とある家畜商の家系に生まれたN氏もまた、神戸で修業をした一人でした。学校を出てすぐに神戸の精肉店に入ると、実務のなかで技術を習得。やがて20代も半ばに差し掛かった頃、高森で精肉店を開きました。現在の山口銀行高森支店の東隣りの場所です。
 その店の名が「こーべや精肉店」でした。本場・神戸で修業してきた職人による店という強みが一発でわかる命名が功を奏し、地域にはまだ競合店がなかったことも手伝って、店はたちまち繁盛しました。

正直な商売

 時はすぎて昭和30年代、N氏は店の繁盛により資金を得ると岩国市街への進出を決め、高森の店は他の人へ譲ることにしました。店を譲り受けたのは、当時、牛の運送を手掛けていたI氏でした。「こーべや精肉店」の看板を引き継いで、商売に励むようになりました。
 技術的には神戸で修業した前の店主にはかないません。しかし、真っ正直な商売のやり方が評判になりました。その頃、業界では「あんこ」と呼ばれる肉の提供方法が幅を利かせていました。それは、外見は赤身の上質な肉に見えますが、その中にはまるで「あんこ」のように脂身等が隠されていたのです。I氏はそれをせず、正直に切ったままを提供していました。
 この頃から、安堂商店との取引も始まっています。きっかけは2代目店主・親之による「お代は払えるときでいいですよ」という緩やかな取引条件でした。当時、肉の取引は即時現金払いが常でした。

スーパーマーケットとの競争

 順調に商売をしていたI氏でしたが、やがてスーパーマーケットの台頭という時代の波に翻弄されることになります。「スーパー・マルシン」(現・バリューマルシン)がすぐ近くに開業したのです。
 客がスーパーに流れていくのを、ただ手をこまねいて見ているわけにはいきません。しばらくしてI氏は、店の向かいにやや広い土地を求めると、「スーパーこーべや」を開業して対抗しました。小道を挟んだすぐ隣には魚屋があり、両店を合わせると、まるで小さなスーパーのような品揃えになりました。さらに店の2階には当時はまだ珍しかった喫茶店が入居。この界隈はたちまち商店街の賑わいになりました。
 この頃、まだ子どもだった安堂光明(3代目)は、「スーパーこーべや」に牛肉を収める様子を憶えています。半頭分の正肉(骨と余分な脂肪を外した肉塊)が、毎朝8時に運ばれていました。
 下の写真(昭和30年代後半の高森)には、左側に「スーパーこーべや」と「プリマハム」、「喫茶N」の看板が写っています。その手前には「鮮魚」。右側には山口銀行が見えます。
この頃、高森商店街は最盛期を迎えていました。

安堂グループの歴史物語第5話
▲昭和30年代後半の高森商店街。山口銀行の向かいに「スーパーこーべや」の看板

激化するスーパーの競争

 昭和40年代の後半あたりから、岩国市や徳山市など近隣都市の近郊には大型のスーパーマーケットが進出し始めました。岩国のベッドタウンとして発展していた玖珂・周東の地域にもやがて、そのような大型店の時代が来ることは明らかでした。
 そこで「スーパーこーべや」の店主・I氏は1977年(昭和52)、国の高度化資金を得ると、玖西盆地の真ん中の地域に大型店を開発しました。「周東ショッピングセンター」と名付けられたその店舗には、I氏が直営する食品スーパーの他、衣料店やおもちゃ屋、パン屋、レコード店等が入居。その複合施設はたちまち地域一番店になり、栄華を誇ることになりました。

玖珂店の誕生

 さて、絶好調のI氏は、周東ショッピングセンター開業のわずか2年後の1979年(昭和54)には、隣町の玖珂に2号店となる食品スーパーを開きました。「スーパーこーべや 玖珂店」。後の安堂グループ直営店です。
 なお、このとき玖珂の土地を世話したのは安堂親之でした。安堂商店から土地・建物を賃貸してのスタートでした。
 この玖珂店も滑り出しは好調でした。
 しかし、徐々に近隣スーパーとの競争が激化します。すぐ近くに中央フード玖珂店が開業し、地元スーパーのミコー玖珂店が拡張移転。すると売り場面積が狭い「スーパーこーべや玖珂店」の業績は下降線をたどるようになりました。さらに精肉の職人が店を離れる事態となると、精肉を収めていた安堂商店が精肉部を引き継ぐことになりました。玖珂店ができて5年後の1984年(昭和59)のことでした。
 その後も近隣スーパーとの激しい競争のなかで営業を続けていましたが、大型スーパーのマミー(現・マックスバリュ)が玖珂に進出することになると、I氏は玖珂店を手放すことにしました。
 1993年(平成5)、玖珂店の土地・建物を所有し精肉部を運営していた安堂畜産が、これの経営を引き継ぎました。
 (安堂商店は1988年に安堂畜産株式会社へ組織変更、代表は3代目・光明)

生き残るための戦略

 業績がかなり悪化したところでの経営譲渡です。そのまま運営しても商機は見いだせません。そこで光明は一計を案じました。
 新戦略のキャッチフレーズは「肉のオリンピック」です。
 食肉に関する多種多様な商品を外国産も含めて品ぞろえし、肉に関しては他店の追随を許さない専門的な売り場を作ることにしました。そのために精肉売場を拡張し、その広さは全売場の1/4以上を占め、店名も「肉のこーべや」に改めました。
 あらゆる部位が揃うのは勿論、焼き肉屋に行かなければお目にかかれない希少なものも揃えました。
 例えば、別名「やまするめ」や「ヨメナカセ」ともいわれるハツモトは、牛の大動脈。コリコリしてまるでイカのスルメです。
 そぶり肉(紹介記事)は骨の周りに付いている肉をそぎ取ったもので、マグロで言う「中落」に当たります。
 さらに、腹皮は、牛の腹筋の皮のことで、おでんの具にすれば、コリコリして美味しいなど…。
 鶏ガラ、豚骨、チャーシュー用のバラ肉など、業務店にも喜ばれる商品も揃えました。
 さらに現在では当たり前のことですが、外国産の表示を明確にしました。一部の他店が外国産を国産と偽って販売していた頃のことです。
 売り場はまさに「肉のオリンピック」。ワニやカエル、ダチョウの肉まで並んでいたとは、その品揃えには驚かされます。

 こうして「肉のこーべや玖珂店」は、地域の食品スーパー間の激しい競争のなかを生き延びてきました。
 あるスーパーで見かけた「こま切れ」のふっくらした盛り方(陳列方法)を取り入れ、それからヒントを得た新しい陳列方法も、この店を舞台に誕生しました(アナザーストーリー1)。また、酒販コーナーを設けて全国の珍しい焼酎を揃えたり、自社農場産の野菜の品揃えを充実させたりの工夫も重ねてきました。
 そんななかで、やはり常に主役だったのは専門性を追求した食肉コーナーでした。「肉の日」(毎月29日前後)ともなると、店から溢れるほどの行列になります。また、平日も、前述した希少な部位はもちろん、安堂畜産の安心安全で美味しい肉を求めて、遠方からも客足が絶えることはありません。それは、「肉のオリンピック」を掲げて専門性を追求した光明の戦略が正しかったことを証明しています。

安堂グループの歴史物語第5話 現在の「肉のこーべや玖珂店」
▲現在の「肉のこーべや玖珂店」。
2021年1月に店内を一部改修し、明るい店内になっている。

 このように「こーべや」という名には、昭和20年代後半から現在に至る70年という長い歳月のなか、各時代の店主たちの熱い思いが込められています。
 神戸帰りのプライド。ごまかしのない切ったままの肉を売る正直さ。これらの思いを継承しながら、「肉のこーべや」は時代を先取りし、さらに進化しようとしているのです。


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