安堂グループの歴史物語[第8話]

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 高森牛の歴史は明治初期に遡ります。その長い歴史のなか、山口県東部随一の牛肉生産を誇る安堂の名が登場するのは、意外にも戦後間もなく、昭和22年のことでした。
 これは、現在の安堂グループに至る道のりを辿った歴史物語。そこには、激動の時代を生きた5つの世代、それぞれの苦難と歓喜の秘話がありました。

第8話

一世一代の大仕事

 「急いでたくさんの牛を売りさばく」。そんな訳ありの取引を引き受けた親之は、ある秘策で、難しい局面に挑みました。

途方もない牛の数

 昭和46年(1971)、45歳の働き盛りになっていた親之の目の前には、見たことのない光景が広がっていました。おびただしい数の牛が牧場に放たれていたのです。
 九州を拠点とする大手スーパーマーケットのユニードが、「訳あり」ということで、直接取引することを諦めた牛を引き取るため、親之ははるばる名古屋の牧場にいました。数は多いと聞いていましたが、目の前には、ざっと数えただけでも、100頭は超えていそうです。しかも、すぐに肉牛として出荷できる牛もいれば、まだ鼻輪も付けていない若い牛もいます。そして、牛の引き取り要請は名古屋だけではありませんでした。西日本各地の牧場に散らばっていたのです。
 牛の所有者からの要求は、「とにかく早く全ての牛を売りさばき、現金にすること」です。親之は、牛の仕分けと値付けの効率を高めるため、一計を案じました。

秘策

 運送会社に依頼して各地の牛を安堂商店に運び込むと、流れ作業で牛を振り分けます。肉牛なのか、もっと肥育が必要なのか、まだまだこれからの素牛なのか…。そして、その分類別にトラックに載せると、そのまま計りにかけました。その目方からトラックの重さを引くことによって牛の総重量がわかります。これに予め決めておいた単価を掛ければ値付けは完了です。あとは売り先へ、そのまま運ぶだけでした。
 こうして牛を満載したトラックが、ある日から突然、安堂商店にやってくるようになりました。柵を張り巡らせた安堂の敷地にどんどん集まってくる牛を見て、近所の同業者たちは腰を抜かすほど驚きました。
 「なんで安堂にゃあ、あんなに牛がたくさんおるんか!?」。
 どの業者も牛不足に悩んでいた頃です。降って湧いたような牛の群れは、なんとも不思議な光景でした。

神の使い

 「おーい!牛が逃げたどーっ!」。
 トラックから牛を下ろして仕分けしていたときのことでした。別のトラックが到着して柵を開けた瞬間、一頭の牛が柵の外へ出てしまいました。親之たちは、慌てて牛を追いかけました。
 若くて元気な牛は、トラックが入ってきた道を逆走すると、広い道に出て横切り、あろうことか食料品店のなかに駆け込んでしまいました。
 「こりゃあいけん。店を壊してしまうぞ!」。
 慌てて、店内に入ってみると、驚いた顔の店主が、店の奥を指さしていました。その先には、座敷の床の間にまるでお供え物のように座っている牛の姿がありました。
 平謝りする親之に店主は、「牛様が床の間に座るとは、なんとも縁起のええことじゃあ」と、笑って許してくれたということです。
 牛は天神様の使いとして崇められてきた神聖な動物です。店主には、商売繁盛の前触れのように思えたのでしょう。

大仕事で得たもの

 仕分けして売りさばいた牛の総数は約3,000頭。たった1週間の出来事でした。
 肉牛の一部はユニードの店頭に並び、役員たちを喜ばせました。そして素牛の多くは、繁美が乳牛を仕入れるときにお世話になった獣医・下村甚之助を通じて、伊豆下田の肥育農家へ渡り、多くの農家がその恩恵に預かりました。
 そして大仕事をやり遂げた親之には、二つの恵みがありました。
 一つは資金です。堅実な親之はこれを牛不足の抜本的な解決のため、牧場経営に投じることにしました。その舞台となるのは、ドライブイン・宿場天野屋利兵衛のために木を伐り出した安堂家の山です。そこには牧場を造るのに適した土地が広がっていました。
 また、この年の春には親之の長男・光明(当時18歳)が麻布獣医科大学(現・麻布大学獣医学部)へ進学。これも牧場経営を見越しての布石となりました。
 そして大仕事によるもう一つの恵みとは…。
 親之がこの恩恵に気付くのは、もう少し先のことになります。

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