安堂グループの歴史物語[第16話]

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 高森牛の歴史は明治初期に遡ります。その長い歴史のなか、山口県東部随一の牛肉生産を誇る安堂の名が登場するのは、意外にも戦後間もなく、昭和22年のことでした。
これは、現在の安堂グループに至る道のりを辿った歴史物語。そこには、激動の時代を生きた5つの世代、それぞれの苦難と歓喜の秘話がありました。

第16話

「周東食肉フェアの誕生」

 銘柄『高森牛』が、玖西食肉研究会で産声を上げた頃、安堂商店も新たなスタートを切っていました。個人商店だった安堂商店は昭和63年(1988)5月、安堂畜産株式会社へと法人成りしました。64歳の安堂親之は社長を退き会長へ、36歳になっていた光明が代表取締役社長に就任しました。光明は若きリーダーとして会社を牽引し、若手の集まりである研究会の活動でも中心的な役割を果たしていました。そんな光明ら研究会の元に、ある補助金の話が舞い込んできました。

周東食肉フェアの第一歩

 柳井市の火力発電所建設に伴う補助金(電源立地交付金)は、地域産業の振興や観光資源の発掘を目的にしたものでした。当時、周東町(現・岩国市)には牛肉のほか、鶏肉、豚肉、そして珍しいところではキジ肉等の特産品がありました。
 一方、隣の玖珂町では、戦国時代の合戦をテーマにした祭りの企画が練られていました。1500人を超える犠牲を出した壮絶な合戦です。まさに出陣しようとする鞍掛城主らを主人公にして、戦国絵巻を再現しようとするものでした。この祭りは、『鞍掛城まつり』としてこの先、毎年、続けられることになります。
 周東町では、「まずは、牛肉をアピールしよう」ということに決まりました。光明ら研究会メンバーも知恵を出し合うと、平成2年(1990)8月11日、夏の青空の下、「来て、見て、食べて・周東町ビーフフェア」が開催されました。
 それは毎年のように数万人を集める一大イベント『周東食肉フェア』への第一歩です。そして、光明ら食肉業者にとっては、ほろ苦い一歩でもありました。

ほろ苦い一歩

安堂グループの歴史物語第16話 『第1回 周東町ビーフフェア』のオープニングセレモニーの写真
▲『第1回 周東町ビーフフェア』のオープニング(写真提供/岩国市)

安堂グループの歴史物語第16話  周東町ビーフフェアのメインステージ
▲メインステージ(写真提供/岩国市)

安堂グループの歴史物語第16話 ウナギのつかみ捕り大会の写真
▲ウナギのつかみ捕り大会(写真提供/岩国市)

 周東中学校のグラウンドには特設ステージが作られ、一千個の風船が放たれて、イベントは始まりました。「来て、見て、食べて」のキャッチフレーズの通り、たくさんの人々が集まり、ステージでの催しや地元小中学生によるパレードを観覧。うなぎのつかみ捕り大会では、巨大な特設プールが水しぶきと子供たちの歓声にわきました。そして、お腹を空かした参加者たちにもてなされたのは、本日のメインイベント、バーベキュー大会でした。

安堂グループの歴史物語第16話 無料配布の牛肉パックの写真
▲無料配布の牛肉パック(写真提供/岩国市)

 生の牛肉パックが無料で配られるとあって、配布場所は大混雑。整列を呼びかける声も届かないほどです。そして、牛肉や野菜を手に入れた参加者たちは、バーベキューコーナーで肉を焼き始めました。

安堂グループの歴史物語第16話 焼肉を手伝う安堂光明
▲焼肉を手伝う安堂光明(写真提供/岩国市)

 「この網にねぇ、肉をこうやって、置いて…」。
 光明は焼肉を手伝っていました。
 「ああ、これくらいがちょうどええよ」と、声をかけながら、汗をぬぐいます。炎天下のバーベキューです。汗びっしょりになっていました。
 参加者たちも口々に、「暑いねぇ」。
 そのうち、こんな声が聞こえてきました。
 「おい、ここで焼くのはやめて、家で食べようやぁ」。
 一家族、一家族と、肉のパックを持ったまま家路につく参加者たち。汗だくで肉を焼きながら光明も、「わしでもそうするのぉ」とつぶやいていました。

 ビーフフェアの参加者は予想を超えた数になり、生肉も早くはけてしまいました。ステージでの余興も盛況で、フェアは成功したように見えましたが、光明らは落胆していました。
 「ビーフフェアなのに、これじゃあただの祭りじゃ」。
 「肉をタダで配っただけじゃ」。

どうすれば、高森牛をアピールできるのか?

 秋に催された隣町の『鞍掛城まつり』が報道され、評判になるなか、研究会では翌年のイベントについて話し合いが持たれました。テーマは、「どうすれば、高森牛をアピールできるのか?」。しかし、なかなか妙案は出てきません。
 そんなある日、光明は福山市に商談にでかけて、面白い話を耳にします。
 「店のオープンイベントでね、牛の丸焼きをやろうと思うとるんよ」。
 その業者は、牛の丸焼きをするための機械を特注で作らせていると言います。早速、その機械の製造現場に足を運ぶと、光明はその迫力に驚きました。半身を丸ごと大きな棒で串刺しにして、回転させながら焼くというもの。串刺しにする心棒は錆ないステンレス製で、これの加工に特殊な技術が要るのだと、担当者は胸を張ります。
 「おお、これをうちにも作ってくれ!」。
 光明はその場で機械を発注していました。それはかつて、世に出始めたばかりのパソコンを買ったときと同じ、衝動買いです。
 「これならうちの肉のアピールに使える!」。
 その時はまだ、ビーフフェアに使うことになるとは、思ってもいませんでした。

 重苦しい空気が漂う研究会の会合のなか、光明はふと、牛の丸焼き機のことを思い出して、メンバーに話しました。
 「そんな戯作なことをすることはない」という意見も出ましたが、「それは面白い」という賛成が大勢をしめ、第2回ではこれを目玉にすることが決まりました。
 こうして、平成3年(1991)11月、前回の反省から時期を秋に変えて『第2回 周東町ビーフフェア(食肉フェア)』が開催されました。丸焼き機を安堂畜産が貸し出し、もう一台を他社から借りると、半身ずつ、まさしく1頭丸焼きを実演。集まった人々は、その迫力に目を丸くしました。メディアもこぞってこの様子を大々的に報道し、「牛肉の産地・高森」はテレビ画面や新聞紙面を大いに賑わせたのでした。

安堂グループの歴史物語第16話 第2回から登場した牛の丸焼き(写真は2006年)
▲第2回から登場した牛の丸焼き(写真は2006年)

一本の電話

 その翌年、平成4年(1992)には第3回の食肉フェアが実現し、牛の丸焼きはイベントの名物として定着。高森牛の名も広く世間に知られるようになりました。そんな矢先のこと、光明へ一本の電話がかかってきました。
 「稀にでも、商品に虫が入るようなことがあるなら、これからの取引は難しい。防虫対策を徹底してくれないか」。
 大口の取引先からの要請に、光明はある大きな決断に迫られていました。

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