安堂グループの歴史物語[第33話]

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 高森牛の歴史は明治初期に遡ります。その長い歴史のなか、山口県東部随一の牛肉生産を誇る安堂の名が登場するのは、意外にも戦後間もなく、昭和22年のことでした。
これは、現在の安堂グループに至る道のりを辿った歴史物語。そこには、激動の時代を生きた5つの世代、それぞれの苦難と歓喜の秘話がありました。

第33話

「夢の実現と思わぬ誤算」

 念願の繁殖センターの完成が近づいていた2011年(平成23)初頭、安堂光明はセンターへ導入する牛を探していました。種付けから始めたのでは、妊娠期間を含めて食肉になるには3年間を要します。手っ取り早く、まずは妊娠している牛(妊娠牛)を仕入れることができれば、センターの船出にはもってこいです。しかし、たまたま子牛の生産農家が廃業するなどのタイミングでなければ、妊娠牛が市場に出回ることはまずありません。
 光明は、各地の家畜市場に出掛ける度に、顔見知りの同業者に声をかけてアンテナを張っていました。

禍によりもたらされた幸運

 その幸運は、畜産業界にとって大惨事となった伝染病によってもたらされました。
 2010年(平成22)4月、宮崎県にて家畜伝染病の口蹄疫が発生しました。その10年前にも宮崎県と北海道で発生し、94年ぶりの出来事とあって大騒ぎになりましたが、処分頭数740頭という規模で終息していました。ところが、2010年のそれは、結果的には約29万頭(ワクチン接種動物の処分含む)の家畜が処分になるという、わが国の家畜史上未曽有の被害をもたらしました。当然、発生当初から家畜の移動制限がかかり、それに伴って近隣の生産農家では、種付けも控えざるを得なくなりました。
 生産農家にとって、種付けができないということは、休業も同然です。しかも、出産を終えて種付けを待つ牛は増えるばかりで、それらに餌を与えて健康を保ち、事態の終息を待つしかありませんでした。ようやく種付けができるようになったのは、全ての移動制限が解除された7月下旬を過ぎてなお、しばらくしてからのことでした。
 口蹄疫の直接の被害を免れた宮崎県北部の生産農家も種付けを控えていましたが、制限が解除されると一斉に種付けを開始しました。そして、たくさんの妊娠牛に恵まれたのですが、ここにきてある問題に突き当たりました。出産と子牛の肥育のための牛舎が足らないのです。こうなったら、妊娠牛をそのまま市場で売るしかありません。

夢の実現

 「延岡の市場で、大量の妊娠牛が出るぞ」。
 繁殖センターの完成がいよいよ迫った2011年春。光明のアンテナにそんなニュースがひっかかりました。それは、口蹄疫の発生から終息までを固唾を飲んで見守るしかなかった光明にとっては、思いも寄らない福音でした。と同時に、親しくしていた宮崎県の同業者たちの無念を思えば、なんとも言えない複雑な気持ちになる光明でした。
 こうして、延岡の市場を中心に他からも調達して、およそ60頭の妊娠牛を集めて、繁殖センターは稼働を開始しました。延岡からは霜降りに定評のある宮崎の血統が入りました。大分県竹田市の市場からは、大きく育つことで知られる大分の血統が入りました。そして熊本県からも…。繁殖センターの入り口には、車両へ直接、消毒液を噴霧する装置を自社で開発して設置。万全の体制で各地からの妊娠牛を受け入れたのでした。

繁殖センターに導入された妊娠牛たち
▲繁殖センターに導入された妊娠牛たち

車両を殺菌する噴霧装置
▲車両を殺菌する噴霧装置

 妊娠牛で賑やかになった繁殖センターを見て回りながら、「夢の実現がかなった」と感無量の光明でした。しかも、出産を経験してきた経産牛ばかりです。やがて訪れる出産ラッシュも、難なく切り抜けることができるはずです。
 実際、出産時に大したトラブルは起きませんでした。作業が楽になるように昼間に産ませるための陣痛促進剤の投与もうまく行き、まだ不慣れだったスタッフらも懸命に働いて、全てはスムーズに進んでいました。

出産後の繁殖牛と子牛
▲出産後の繁殖牛と子牛

 ところが、出産後の牛のなかに体調を崩すものが現れ、次第にその数が増えていったのです。

繁殖センターでの発病

 それはインフルエンザや白血病等のウイルスや、肺炎等を引き起こすマイコプラズマによるもの。熱が出たり、鼻汁や咳やくしゃみ等、風邪の症状が続出しました。口蹄疫のような大事件ではないものの、一度それに感染すると、2~3ヶ月は種を付けることができません。
 なぜそんなことになったのか。獣医資格を持つ光明には、思い当たることがありました。
 「色んなところから牛を集めたから、どこかの牛が持ってきたのに違いない」。
 九州各地はもちろん、岡山や岐阜からも妊娠牛を集めて、一つの牛舎に入れたことが、この結果を招いていたのは明らかでした。

 光明はすぐに手を打ちました。
 感染している牛を繁殖センターから外して古い肥育牛舎に隔離すると、そこで集中的に治療することにしました。これにより、病気の蔓延は収まりました。そして、このことを教訓にして、外から繁殖牛を導入したときには、数週間は、必ず別に設けた専用の牛舎で様子をみてから繁殖センターへ移すことにしました。それ以降、病気が蔓延することはなくなりました。

大いなる展望

 さて、病気のせいで2~3カ月もの間、種付けできる牛が限られるとなると、やはり子牛を市場で仕入れて補充しなければなりません。繁殖センターを新設したばかりなのに、十分に稼働できない状況は残念でなりませんでした。
 そしてもう一つ、肉牛が足らなくなる原因がありました。それは安堂卓也(現社長)が始めていたある試みに起因するもの。大いなる展望と言ってもいいでしょう。この繁殖センターを舞台にして、和牛のルーツそのものの血を受けた血統が、新しい歴史を刻もうとしていたのです。

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