安堂グループの歴史物語[第12話]

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 高森牛の歴史は明治初期に遡ります。その長い歴史のなか、山口県東部随一の牛肉生産を誇る安堂の名が登場するのは、意外にも戦後間もなく、昭和22年のことでした。
これは、現在の安堂グループに至る道のりを辿った歴史物語。そこには、激動の時代を生きた5つの世代、それぞれの苦難と歓喜の秘話がありました。

第12話

「安堂のため、地域のため」

 それまで10日間だった生肉の賞味期限を45日間に伸ばすことができる。売れ残る部位を冷凍することなく売り切るチャンスが増える。「真空チルド包装」はそんな画期的な技術です。
 しかし、数千万円の設備を整えるのは、当時の安堂商店には冒険でした。
 そんな悩める光明のところに、父・親之は朗報を持ってやってきました。

父の提案

 「町が組合のために、共同の冷蔵庫やカット工場を建設することが決まったぞ」。
 それは後に周東町食肉流通センターと呼ばれることになる施設のことでした。老朽化した高森屠畜場の移転と建設を昭和53年(1978)に実現していた周東町(現・岩国市)は、それに続く地域産業の振興策として、食肉事業者(玖西食肉加工事業協同組合)が共同で使用できる大型冷蔵庫を備えたカット工場を建設することを計画したのです。それは、冷蔵庫を持たない小規模事業者にとって、大変な朗報です。すでに冷蔵庫を持っている安堂商店など中規模以上の事業者にとっても、事業を拡大する上で、利用価値はあります。産地として発展することも、歓迎すべきことでした。
 ところが、ほどなくしてこの計画は暗礁に乗り上げてしまいます。冷蔵庫を持っている同業者から、反対の声が上がったのです。それは競合他社が淘汰されることを狙ってのことでした。
 町が建物と設備を用意した後は、施設の利用者がこれを維持運営する取り決めです。小規模事業者の利用だけでは、維持費を賄うことはできません。
 親之は光明と話し合いを持ちました。
 「うちにも冷蔵庫はあるが…、どうじゃ光明、うちの拠点を町が作るセンターに移さんか。今なら、欲しい設備を町が用意してくれるかもしれん」。
 光明は、ハッとしました。
 念願の真空チルド包装の設備を整えてくれるなら、拠点を移す意義は大いにあります。さらには、新たに稼働していた屠畜場のすぐ隣となれば、衛生面のメリットも大きい。すでにその頃、一部の取引先からはより高度な衛生への要請が寄せられていました。
 「それにのぉ、これは地域の業者みんなのためでもあるんじゃ」。
 親之の言葉に、笑顔で応える光明がいました。

不調の競り

 周東町食肉流通センターの建設が進んでいた昭和56年(1981、光明28歳)のある日、光明は宮崎都城家畜市場へとトラックを走らせていました。いつもなら、競り落とした牛を満載して帰る姿を想像しながらのドライブですが、その日は、ある悩みが頭から離れません。
 建設中のセンターには、熱望していた真空チルド包装の設備が導入されることが決まっていました。それは地域の事業者にとっても価値ある施設です。ところが、それを稼働させるために欠かせない真空包装用のフィルムの購入がまだ決まっていなかったのです。新しい施設の操業まで数か月という時期でした。
 業界では、グレース社(現・シールドエアー社)製フィルムの品質の高さが知られていました。約80℃の湯で瞬時にシュリンク(縮む)して空気を漏らさないその性能は他を圧倒するものです。しかし、その価格もまた、他を圧倒する高値でした。
 「あのフィルムがどうしても欲しい」。
 競り場に立っても、そのことが頭から離れない光明でした。

市場での会話

 考え事をしていては、競りは上手くいきません。競りを不調に終えた光明は、競り場横の控室にいました。
 「安堂さん、今日はちょっとお疲れですね」。
 声をかけてきたのは村上畜産の村上真之助(当時23)。光明の5歳年下でしたが、兵庫県を拠点に業績を伸ばしていました。後の株式会社ムラチク、そしてエスフーズ株式会社との合併を経て年商3,000億円の企業へと成長することになります。光明とは同世代ということもあって、市場で顔を合わせれば声を掛け、時にはお酒を飲みかわす間柄になっていました。
 光明が悩みを打ち明けると村上は、そんなことかと笑うと、こんな提案をしてくれました。
 「だったら安堂さん。うちらが付き合っている店を紹介しますよ。同じ値段で買えるはずですよ」。
 村上畜産は当時、ある販売代理店からグレース社のフィルムを購入していました。同様に競りでは激しくやり合い、夜には盃を交わす森内耕司(作州ミートパッカー・岡山県津山市)もまた、同じ店と契約をしていることを知りました。
 生産規模の大きな2社に相乗りすることによって、安堂商店はグレース社のフィルムを特別価格で導入することに成功しました。

 その年の8月、周東町食肉流通センターは完成し、操業を開始。安堂商店がそこに拠点を移したことにより、設備維持にかかる経費の多くが賄われることになり、小規模事業者らは廉価な使用料で冷蔵庫等の設備を利用できるようになりました。

周東町食肉流通センター(昭和56年完成)
▲周東町食肉流通センター(昭和56年完成)

真空シュリンク包装の機械
▲真空シュリンク包装の機械

新たな問題

 昭和57年(1982)には、山口中央生協(現・コープ山口)との取引を開始。屠畜場(周東食肉センター)と隣接する施設で加工される食肉は衛生面にも優れ、生協からの厳しい要求にも応えるものでした。

安堂商店のスライスセンター。山口中央生協(現・コープ山口)用の牛肉パックを製造。
▲安堂商店のスライスセンター。山口中央生協(現・コープ山口)用の牛肉パックを製造。

 また、フランチャイズ方式による精肉店の出店もこの頃からスタートしています。これは、精肉店を開業したいという会社員や料理人等に安堂商店が設備やノウハウを提供し、安堂の食肉を専門に販売してもらうというものです。

 相次ぐ取引の拡大と、フランチャイズによる直売店の増加。取引量は増える一方です。そして新たな問題が浮上してきました。それは膨大な事務処理との戦いです。
 単にたくさんの伝票を処理するだけではありません。部分肉の原価を把握して卸価格を決める計算は、商品が多様なだけに複雑でした。しかし、これをなおざりにはできません。もし、他店との比較や経験で値を決める従来の方法によって、知らぬ間に損が出ていたとしたら…。取引量が多ければ多いほど、損害も膨れてしまいます。
 光明はあるスーパーの担当者から計算方法を教えてもらうと、表を工夫して、肉牛の仕入れ値から各部位の原価を把握。これを元に、卸値を算出するようにしました。
 また、この計算結果を小売店の値付けにも応用して、小売店がいくらで各商品を売れば損をしないのかをアドバイスし、「わかりやすい!」と喜ばれていました。
 ところが取引量が増えてくると、光明の計算はたちまち追い付かなくなりました。
 「いったい、どうすればいいのか」。
 いつものように仕事を終えた夜、光明は鉛筆を持ったまま計算表をながめて、ため息をついていました。
 そんなとき、一本の電話がかかってきました。
 「この日曜から開店セールじゃ。お前も何か買いに来てくれ」。
 最近、幼なじみが家電量販店の第一産業(現・エディオン)に就職したのは知っていました。
 「しょうがないのぉ」。
 このやり取りが、安堂商店のその後を変えることになるなど、その時の光明には思いもよらないことでした。 

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