安堂グループの歴史物語[第13話]

安堂グループの歴史物語 タイトル画像

 高森牛の歴史は明治初期に遡ります。その長い歴史のなか、山口県東部随一の牛肉生産を誇る安堂の名が登場するのは、意外にも戦後間もなく、昭和22年のことでした。
これは、現在の安堂グループに至る道のりを辿った歴史物語。そこには、激動の時代を生きた5つの世代、それぞれの苦難と歓喜の秘話がありました。

第13話

「衝動買いの功名」

 真空チルド包装の導入により、部分肉の取引は順調に伸びていました。ところが、それに伴って原価計算や伝票処理も増え、事務仕事は深夜に及ぶほどでした。31歳の光明も、さすがに疲れていました。

幼なじみの誘い

 小学生からの幼なじみ、京條紀行からの強引な誘いを受けて光明は、家電店の売り場にやってきました。京條は家電量販店・第一産業(現・エディオン)に勤め、岩国店のオープニングスタッフになっていました。
 「開店祝に何か買ってくれ。高いものじゃったら、何でもええ」と、京條は派手なハッピを羽織って、店内を案内してくれました。
 昭和58年(1983)の夏、扇風機やクーラーなどの季節商品が派手にディスプレイされている売場を過ぎると、高価な大型テレビや出始めたばかりのCDプレーヤーが並んでいました。
 「これはどうじゃ…、こっちはどうじゃ…」。
 あれこれと値の張るものばかりを指さす京條にうなずくだけの光明でしたが、奥の方に見慣れない形のテレビを見つけました。それは発売されたばかりのパーソナルコンピューター(QC-10、セイコーエプソン社製)でした。
 これは何に使うものかと尋ねると、「いろいろと計算ができて、便利なものらしい」と京條は答えました。
 もしかすると、部分肉の原価計算に使えるかもしれない。
そう直感した光明は、思い切ってこれを買うことにしました。本体だけで40万円、キーボードが別売りで4万円、プリンターも付けると50万円を超えます。期待した以上の金額に京條は大喜びです。
 帰り際、「これの使い方を教えてくれよ」と京條に頼むと、「説明書を読んでがんばってくれ」と言って、申し訳なさそうな顔になりました。
 オフィスコンピューターの導入がやっと始まり、パソコンが海外から上陸してまだ間もない頃、パソコンをいったい何にどう使えばいいのか、まだ誰も知らなかったのです。

分厚い説明書

 それからというもの、光明の悪戦苦闘が始まりました。分厚い説明書と格闘すると、スーパーカルク(SuperCalc)というソフトにたどり着きました。それは後にエクセル(Microsoft Excel)にも影響を与える表計算ソフトの決定版。光明は、その解説書とも格闘しなければなりませんでした。

安堂グループの歴史物語第12話 説明書の写真
▲QC-10(エプソン社製)の説明書

 紙の上では、部分肉の原価計算は完成していました。それは、部分肉の卸先の一つ、スーパー・マミーの社員から教わった計算方法です。
 肉牛の仕入れ値は一頭毎に違います。それを体重で割ることにより、キロ当たりの単価を求め、これを元に部位ごとの原価を計算します。ただし、体重のすべてが商品になるわけではないため、その割合(歩留まり)を考慮する必要があります。この比率もまた、一頭毎に違っていました。
 煩雑な計算ですが、これを把握すると違う牛の肉をミックスしたり、腕バラと肩バラを混ぜてすき焼き用商品を作るときも、混ぜる割合を加味すれば原価を知ることができます。それまでは経験と勘に頼っていた値付けですが、原価がわかれば「安心して決められる」と、納品先の販売員にも喜ばれていました。

安堂グループの歴史物語第12話 手書きの原価計算表の写真
▲手書きの原価計算表

 文字通り悪戦苦闘の末、光明はパソコンによる原価計算を実現し、その後も試行錯誤を重ねて、実務に活用できるようにしました。部分肉の取引は爆発的に増えて、もうとっくに手書きの計算が間に合わなくなっていたところです。一瞬にして原価が得られるパソコンはまさに、革命でした。
 さらにパソコンは素晴らしい恩恵を与えてくれました。蓄積したデータを活用すると、一定期間の原価や歩留まりの平均値が容易にわかりました。これを基にして、値付けはよりスピーディになりました。また、どんな牛がどれくらいの原価になるのかも、統計的に予測することができるようになりました。
 現在では当たり前の原価管理システムですが、安堂商店は地域のどの同業者よりも早くこれを実現したのです。
 ある日、パソコンを使いこなしている光明の姿をみた京條は、「おまえ、ようやったのぉ」と、感心しきりだったようです。

 パソコン(QC-10)を導入した翌年には、安堂商店は手持ち型のハンドヘルド・コンピューター(HC-40・セイコーエプソン)を使い始めています。現在のタブレットのようなそれを現場に持ち込み、売場で値付けや商品づくりをアドバイスするようになっていました。

記録的なと畜数

 昭和59年(1984)、光明が大学を卒業して実家に戻ってから、10年の月日が経とうとしていました。その間、大学で得た獣医の資格が役立つことはほとんどありませんでしたが、仲間たちと切磋琢磨して研究に没頭した日々が、光明を下支えしていました。
 父・親之が不得手にしていた商談を、光明が引き受け、取引先のニーズに応える商品をつくり、流通の仕組みを変えました。また、パソコンの分厚い解説書にかじりついて、事務の効率化を図ると、データを活用してさらなる業務改善を遂げる。これらを実現できたのは、あの大学での日々があったからこそです。
 明治期からの産地・高森にあって、戦後に創業した安堂商店ですが、この頃になって飛躍的に取引を増やしていました。昭和61年度(1986)、地域の食肉産業を担う周東食肉センターでのと畜数は8,000頭を超え、過去最多となりました。その内の6割弱に当たる4,600頭を、安堂商店の肉牛が占めていました。
 最後発の辛酸をなめて苦労した初代の寿、その跡を継いで地道に肉牛の肥育に取り組み牧場を拡大した二代目・親之、そして精肉店と飲食店を成功させた叔父・繁美。その約40年の歩みを礎に、32歳の三代目・光明が、いよいよ大輪の花を咲かせようとしていました。

 出る杭は打たれる。
 地域の同業者のなかには、安堂商店の躍進をよく思わない者もありました。「安堂ばかりがいいことをして…」と、やっかむ声も聞こえてきました。周東町が整備した大型冷蔵庫やカットセンターも、安堂商店がそこに拠点を移さなければ運営はままならなかった。そんな事情も、数年で忘れられていました。親之と光明は空前の売り上げのなかにあって、やり場のない憤りを感じていたのです。
 そんなある日、思いつめた光明は、地域の同業者の家を訪ねました。ある相談を持ち掛けるためでした。

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