安堂グループの歴史物語[アナザーストーリー 7]

安堂グループの歴史物語 タイトル画像

 高森牛の歴史は明治初期に遡ります。その長い歴史のなか、山口県東部随一の牛肉生産を誇る安堂の名が登場するのは、意外にも戦後間もなく、昭和22年のことでした。
これは、現在の安堂グループに至る道のりを辿った歴史物語。そこには、激動の時代を生きた5つの世代、それぞれの苦難と歓喜の秘話がありました。

アナザーストーリー 7

種の保存への志

 安堂グループの理念は、「ココロもカラダも喜ぶ ふるさとのビーフ」です。このなかには、「美味しさ」「安心・安全」「地産地消」の追求の他に、ふるさとの味わいの素となる肉牛の「種の保存」という志が含まれています。

発端は「いろり山賊」との出会い

 安堂グループの「種の保存」への取組は、昭和35年(1960)、今や全国に名が知れる飲食店「いろり山賊」の創業者・高橋太一氏との出会いに端を発しています。まだ山賊が開業する10年近く前のことです。
 「三重には松阪牛があるように、他にはない独自のブランドを作りたい」(第4話)。
 そんな高橋氏の思いを受けて、安堂光明(現・会長)の叔父・安堂繁美は見島(山口県萩市)へ赴きました。そこには、黒毛和牛の先祖にあたる日本在来牛の生き残りである見島牛が生息していたのです。
 明治期以降、日本の在来牛は海外種との交配による品種改良を重ねてきました。それまで、日本では牛肉を食用にする習慣はなく、農耕用の役牛として牛が飼育されていました。しかし、食用にもするとなると、その小柄な体格が商売上の障害になり、より大きな体格を求めて、外国種との交配が進んだのです。当時、経済性を優先するあまり、在来種を保存するという考え方は、残念ながら誰も持ち合わせていなかったようです。
 結果として、日本では黒毛和種、褐毛和種、日本短角種、無角和種という4種類の、何れも外国種の血が入った牛を「和牛」と称することになり、在来牛は一部を除いて絶滅しました。わずかに在来種を残したのは、本土から遠く離れた孤島である見島と口之島(鹿児島県十島村)のみでした。品種改良の波から取り残されたことが、種の保存にとっては功を奏したのです。

 繁美が見島牛保存会(当時の会長は多田源水氏)から譲り受けたのは雄の見島牛1頭です。繁美はこれを種牛として繁殖することを目論んでいましたが、結局、その見島牛の子が生まれることはありませんでした。
 ただ、この見島牛に触発されて、後に山賊を開業することになる高橋氏は一つのブランドをデザインしました。それが、現在も安堂グループで生産が続く皇牛(すめらぎぎゅう)です。
 皇牛の定義は、「見島牛、すなわち在来牛の伝統を継ぎ、守り続ける黒毛和牛」です。見島牛が生息する山口県産の黒毛和種で、肉質の良い雌牛(未経産)のみをこのブランドに相応しい肉牛としました。

見島牛を買ってくれないか

 繁美が見島牛を譲り受けて37年が過ぎた平成9年(1997)のことです。見島牛保存会(二代目会長・多田氏)から「見島牛の肉牛(雄の去勢)を買ってくれないか」という依頼が安堂畜産に寄せられました。地元での取引ばかりで相場が固定することを嫌ってのことでした。
 天然記念物である見島牛は、島内でこれを食肉にすることは許されていません。しかし、種の保存のために繁殖し続けると、肥育のための費用がかさみます。そこで、去勢した見島牛を売り出すことがありました。
 光明は生後10か月くらいの牛を5頭、見島牛保存会から購入して肥育を開始しました。ただ、それらの体重はわずかに120~130kgの子牛サイズ。通常の黒毛和牛なら360~370kgのところです。
 「牛舎の囲いからすり抜けてしまわないか、心配だった」と光明は言います。
 これらを2年3か月肥育して、体重は460kgほどに成長しましたが、黒毛和牛の去勢なら800kgになるところ。体格が小さいことは在来牛の特徴だと知ってはいましたが、手元で育ててみてもやはりこのサイズとは…。光明は内心、落胆していました。
 ところが、枝肉の断面を見たとき、光明の気持ちは一気に晴れたのでした。
 「これは、見事な霜降りだ」。
 在来牛には小型という特徴のほかにもう一つ、肉にサシが入りやすいという特筆すべき特徴があります。肥育した5頭全てが、この特徴を見事に受け継いでいたのです。
 しかも、驚いたことに、消費者に人気のリブロースとサーロインが厚く、黒毛和牛と比較してもそん色ない大きさでした。

安堂グループの歴史物語第7話 見島牛、断面
▲見島牛の枝肉断面写真。見島牛の特徴であるサシが見事に入った素晴らしいリブロース

 平成11年(1999)6月11日、山口県ローカルのテレビ番組「さわやかモーニング」(KRY)のプレゼントコーナーに、見事な霜降り肉が登場しました。「純粋見島牛」と名付けられたその牛肉こそ、高森肉牛ファーム(安堂グループ)で肥育された見島牛でした。同時に、地元スーパーでの限定販売と安堂グループのレストラン・宿場天野屋利兵衛の「見島牛の肉めし」が告知されると、たくさんのお客で店内はごった返す騒ぎになりました。

種の保存、それは未来への歩み

 光明は「種の保存」のためには、天然記念物として繁殖を助け大切に育てることに加えて、経済的にも地域の農家や加工業者が豊かになる必要があると考えてきました。そうしなければ、繁殖や肥育に携わる農家は、やがては事業を継続できなくなります。
 テレビ視聴者にプレゼントしたのと同じ見島牛の牛めし用の肉を見島牛保存会の多田会長へも贈ると、肉の美味しさはもちろんのこと、望外の喜びの声が届きました。
 「見島牛を初めて食べさせももらいました。今まで、食べたことがなかったんです。本当にありがとう」。
 生産者たちが、自ら育てた牛の味を知ること。そして、その生産を続けて、生計が成り立つこと。それらは、「種の保存」は元より、地域の活性化にとっても、なくてはならない基盤なのだと、その時、光明は確信しました。

 見島牛を肥育して販売した頃から、安堂グループは、見島牛と同様に希少品種である無角和種の保存と流通に貢献してきました(第27話第28話)。現在は生産者の高齢化等により、年間40頭程度の生産ですが、JAタウン(ネットショップ)では毎月、予約受付になれば即刻完売するほどの人気を博しています。そして、生産と流通を促進する活動は今も続いています。
 さらに、見島牛についても、数年前に県から精子の提供を受けた(第3435話)ことを契機に、見島牛と黒毛和牛の交配により生まれた雌牛を母牛とし、その子牛が育っています。その牛肉はまさに、見島牛の血統をそのまま引き継いだもの。それは山賊の創業者・高橋氏が夢見た皇牛のストーリーの結実だと言えます。

 「うちには今、見島牛の血を引く牛や、無角和種、それに、珍しい高知の褐毛和種もいる。『種の保存』のためはもちろんだが、他にない品種をという流通や消費者の声に応えたいからね」と光明。
 ふるさとの味わいを品種から追求する安堂グループ。その歩みは、品種という歴史を温めながらも、実は新しい市場を拓く取組みでもあるのです。

安堂グループの歴史物語第7話 見島にて

▲見島にて(光明と卓也。5頭を買い付けた後、島を訪れた時)
「種の保存」の志は親から子へ引き継がれている。


← アナザーストーリー6 「高森の伝統食・干し肉の開発秘話」

→ アナザーストーリー8 「アンテナレストラン・高森亭」